公開武家住宅の概要

「旧岩田家住宅」

<青森県重宝>

【概要】
・19世紀初期の建物と推定
・木造平屋建  ・寄棟造茅葺屋根
・玄関及び一部 … 庇付柾葺屋根
・東面突出部 … 切妻造柾葺屋根
・附 門1棟

― 座敷から眺める観賞用の坪庭 ―

この建物は、門、土地とともに、仲町地区の保存を積極的にすすめていた故・岩田夏城氏のご遺志により、昭和56年、ご遺族から市へ寄贈いただいたものです。
主屋だけでなく、井戸小屋や便所などの付属屋も残っており、市で修理工事と庭の整備を行い、昭和58年から一般に公開しています。
間口約16m、奥行き約43mの細長い敷地は、藩政時代からほとんど変わっていないものと思われます。

主屋は表の通りから9m程離れて建ち、その間には、つくばいや石燈籠、石組みによる観賞庭園「ツボ」が整えられ、座敷から眺められるようになっています。

そしてこの庭は、明治時代に様式が確立される、津軽地方の作庭技術「大石武学流」以前の古風な点をもつ事から、明治時代以前にたどるものと考えられます。
また、主屋の裏には、野菜・薬草を栽培するための自家菜園を設けたり、果樹を植えたりした実用的な庭「ガグチ」の面影が残っています。

建物は、19世紀初期のものと推定される、武士の住居です。数回の改造後、岩田家が入居した明治時代には使用人の部屋などを増築して規模が大きくなりましたが、柱や小屋組といった主要構造部材は、ほぼ当初のまま残っています。
内部は、玄関から続く「広間」と「座敷」が接客用の部屋、「常居」より北側が日常の生活に使われる部屋となっています。このように、式台の玄関をもち、日常の生活空間を通らずに座敷へ行く事のできる間取りが、武家住宅の特徴の一つとなっています。

近年、市内の武家住宅の多くが姿を消してしまった中で、この「旧岩田家住宅」は、江戸時代後期の武士の生活を知る貴重な建築物として、昭和60年に青森県重宝に指定されています。


【 岩田家について 】
上杉謙信に仕えた岩田大善吉勝を初代とする岩田家が津軽家に仕官したのは、4代・衛門兵衛惠孝の時からです。岩田家は代々、学問と武芸の両道に優れた家系で、13代・岩田夏城氏も、生涯を剣の道に捧げた人です。また、書画骨董にも興味をもち、夏城氏の収蔵品及び代々岩田家に伝えられてきた掛軸などの大半が、ご遺族より、弘前市立博物館に寄贈されています。


「旧笹森家住宅」(旧弘前藩諸士住宅

< 国重要文化財>

【概要】
・江戸時代中期18世紀の建物と推定
・当地区内北東部小人町より移築
・木造平屋建 ・切妻造銅板葺屋根
・外壁 … 土壁塗真壁造
・附 門1棟

― 宝暦の絵図に描かれた古風な武家住宅 ―

この建物は、藩政時代の武家住宅台帳「御家中屋舗建家図」(宝暦6年・1756年)に、佐々森(笹森)傳三郎の家として平面図が記載されています。
もとは仲町地区内北東部の小人町(こびとちょう)にあったもので、平成7年、所有者の小野氏から市が主屋と門の寄贈を受け、解体した部材を一時保管、そして平成24年、現在地へと移築し、宝暦期を想定した復原を行いました。

建築年代が江戸時代中期とされ、小規模な住居ですが、主要な部屋の間取り、簡素な床の形式、閉鎖的な壁面構成など、建築の随所に古風な特色がみられ、当保存地区内に現存する最古の武家住宅として確認できます 。

江戸時代後期から明治時代にかけての伝統建築が多い中で、「旧笹森家住宅」は、弘前城下における中・下級武士の住宅の建築様式を伝える遺構として極めて重要であり、平成28年には国の重要文化財に指定されています。


「旧伊東家住宅」

<青森県重宝>

【概要】
・19世紀初期の建物と推定
・弘前市内元長町より移築
・木造一部2階建
・切妻造柾葺屋根(現トタン屋根)

― 格式高い座敷を誇る藩医の住まい ―

この建物は、藩政時代に代々藩医を務めた伊東家の居宅として、19世紀初期に弘前市内元長町(もとながまち)に建てられたものを、昭和53年、市が伊東凌二氏より寄贈を受けたものです。
その後、現在地への移築・復原を行い、昭和55年から一般に公開しています。
なお、建物西側裏手は、明治時代の改造により原型が定かではないため、寄贈後の解体前の状態としています。
また、現在は「広間」と「常居」の上に1室となった中2階がありますが、これは後世の増築によるもので、江戸時代当初は平屋建でした。

東を正面とする玄関は式台構えで「広間」が続き、石高100石前後の中級武士の居宅に似た特徴もありますが、「常居」「座敷」「次の間」「台所」が田の字型に並ぶ間取りは、仲町地区の他の中・下級武士の居宅とは異なります。

また、広い続き間、各部屋に廻された長押、天袋と違い棚を備えた床の間の意匠や透かし彫りの欄間などは、他の武家住宅より格式高い形式を誇り、落ち着いた住宅空間を生み出しています。

そして、現代の建物では見られなくなった式台、板大戸、板雨戸、囲炉裏、格子窓や障子窓のほか、天井の張られていない部屋や土壁、通り土間などから、往時の様子が偲ばれる貴重な建築物として、平成17年に青森県重宝に指定されています。


「旧梅田家住宅」

【概要】
・江戸時代末期の建物と推定
・弘前市内在府町より移築
・木造一部2階建
・寄棟造茅葺屋根

― 茅葺屋根を支える重厚な木組み ―

この建物は、江戸時代末期、嘉永5年(1852)頃に弘前市内五十石町(ごじっこくまち)に建てられた武家住宅です。市内在府町(ざいふちょう)に移築されていたものを、昭和57年、市が梅田彦一氏から寄贈を受け、現在地への移築・復原を行い、昭和60年から一般に公開しています。

当初の居住者は森家の10代目・森新次郎と推定されています。その手掛かりとなったのは、台所にある大きな戸棚でした。引き出しの裏に、「嘉永五壬子年森新次郎代云々」という墨書が残されていたのです。社寺や城郭を除く江戸時代の建築物では、非常に貴重なものです。戸棚が置かれていた場所の床板が、ほかに比べてほとんど汚れていなかったことから、この戸棚は建築当初からその位置で使われていたものと考えられます。また、建物の材料調査や居住者の変遷からも、この年代が妥当と考えられます。

外観において特徴的なのは茅葺き屋根です。建物内は、建築当初から天井が張られておらず、その屋根を支える重厚な梁組みをそのままみせます。

式台玄関から入ると10畳の「座敷」へと至り、その奥には縁側をもつ「常居」が続き、そして最も奥には壁で囲われた閉鎖的な「寝間」をもちます。「常居」の脇の「台所」も、勝手口のほか窓が少なく、閉鎖的な造りになっています。これは、冬期間の北西からの季節風に対応したものと考えられます。
天井を張らない点、閉鎖的な「寝間」や「台所」は古風な形式です。幕末時点でも、中・下級の武家住宅はこうした古風な様式をもっていたことをうかがわせます。